『万作』①万作
『万作』
■ 第一章 万作
◆ 「ストローぐち」と書いてある穴にストローを挿す男。
万作は目が覚めると、寝る前に買っておいたカップコーヒーに手を伸ばした。
「ストローぐち」と書いてある穴にストローを挿し、飲む。
まあ、美味い。
タバコが切れているし、空は酷く晴れていて、夕方の西日の強さを思うと今から気が滅入りそうだった。
現在、午前11時18分。
電話が鳴った。
◆ ベアからの電話の内容。
電話はベアと言う男からで、仕事の依頼だった。
が、単純に仕事の依頼と言うよりは、依頼されていた仕事が一つ減って、新たに一つ依頼されたと言うだけの事であった。
何と言う事は無い、何も変わらなかった。
少し説明すると、依頼されていた仕事を万作はすでに終えていた為、ベアの電話は万作に「取り越し苦労」を与えたとも言える。
全くもって、不愉快だ。
◆ 外出の際、身に纏うべき思想。
電話を切ると、万作は切れていたタバコと、空腹を満たす為の何かを手に入れる為、身支度をした。
「手に入れる」
ここではコンビニエンスストアへ買いに行く、と言う事にしよう。
万作にとってそれは当然の事なのであるが、Tシャツとトランクスと言う出で立ちで、玄関のドアを開けて表へ出る事はあまり良くないと万作は考えている。
なぜなら、街の人たちがその様な出で立ちで通りを歩いている光景を万作は見た事が無かったからだ。
それはつまり、街の人たちにとっても当然の事だと言う事なのだろう。
Tシャツとトランクスと言う出で立ちで、玄関のドアを開けて表へ出るのはあまり良くないと言う思想。
とても面倒臭かったが、ズボンを穿き、サンダルを突っ掛けて、予定通りのものを万作は手に入れた。
◆ フリーライター。
再び玄関のドアを開閉させ、自室へ戻ると、買ってきた磯辺餅その他で空腹を満たした。
空腹を満たし終えると、封を切ったばかりのタバコに火をつけた。
万作はいわゆるフリーライターだった。
あるいは、フリーライターと呼ばれる事で、社会的な意味合いがわかりやすくなる存在であった。
フリーランスで請け負い仕事をしており、時には完成した原稿が不要になるという様な理不尽な事がたまに起こる。
今回も、ベアから頼まれていた原稿はすでに書き終えていたのだが、その仕事は先ほどキャンセルになった訳で、苦心して書き上げた原稿は当初の意味を失っていた。
原稿を書いた万作しか読んだ事の無い、そして今後誰も読むことの無い文字の羅列と化していた。
自己の思考の過程の断片と言う意味しか持たない文字の羅列。
そんなものに、果たして何らかの意味があるのだろうか。
「伝える為でも無ければ、伝わる為でも無く存在する文字列。」
それは、万作の所有する、彼の仕事道具である所のコンピュータに納められている。
とどのつまり、「0」と「1」の組み合わせ。
こんな事があるたびに、万作は酷く奇妙な感覚に襲われるのだった。
書きあがっていた原稿は、ベアこと阿部熊三氏へ手渡され、しかるべく使用され、人の目に触れ、万作へ報酬が支払われた時点で当初の意味を真っ当するはずであった。
だがしかし、当初の意味が真っ当されると言う様な事はもはや起こるまい。
キャンセルになってしまったのだから、キャンセルがキャンセルされぬ限りはである。
それらは、万作のコンピュータの内部に「0」と「1」の羅列として、万作がそのデータを消去するまで、永遠にその姿をとどめる事であろう。
そして、いつか万作自身もその事を忘れてしまうのだろう。
ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念の在り方と言うものが、もし仮にあるとすれば、それはまるでその「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念」のようだ。
万作は、そんな事を考える事に何だかうんざりして、ベアから頼まれた「新しい方の仕事」に手を着けようと言う予定を取りやめ、さらに再び玄関のドアを開閉させ、表へ出る事にした。
好都合な事に、先ほど買い物に出かけた事で「Tシャツとトランクスと言う出で立ち」は、現在、万作のものでは無かったからである。
万作には、いつもこんな日に足を運ぶ場所があった。
時計は午後12時42分を示していた。