万作の日記

人生の目標は「生きているだけで生きていける」こと。

artを消費する。artに消費される。

と言う表題(タイトル)を書いてみた。

ここから始めてみるわけだ。

 

あるとき。

それはたぶん筆者が中学二年生とかそのくらいかな。

 

なんかロックがカッコ良いと思って、それでフォーク世代でたまたまギターを何となく所有していたと言う伯父さん(母の兄)から、その千葉県銚子市にある母の実家の母の兄のかつての自室から無理やりギターを借りて来てわたしはギターを手にした。

 

そのときのわたしは、あるいはもちろんのこと今でもそのロック音楽から「art」とやらの片りんを感じ、そしてそれに憑りつかれてきた。

 

きっと「art」とは個人に宿るその個人の命のエネルギーがある形式や様式の範囲に収まって、ないしその形式や様式の範囲を拡張し、あるいは拡張し続けると言う様な形でそこにそのまんまの「その人らしさ」ほかの誰でもないその個人の命のエネルギーそのものみたいなものが込められて、封じ込められていること・ものな気がする。

 

だから、もし仮にそれを定義とするならばそれ(art)はロックにだって、それ以外にだって込める事が、込められることが可能だろう。

 

ってそんなの当たり前だって!?

その通りです(笑)

 

例えばわたしはタイトル文に使ってみた言葉「art」に対してそう言う捉え方をしていると言う事だけを言いたかった。

 

 

しかし、その「art」たるはいつしか社会やかくかく各々の個人によって消費されて失われてしまう。

ものによってはそれがどんなに最高の「art」だったにせよ、生まれると同時にその「art」たる部分が消費され失われ、その見事なフレームワーク、その「art」が何らかの形式や様式の範囲において語りうる少なくとも事実、少なくとも語りうる何かであったと言う事において保存され得るものの、その肝心要の「art」そのものは消え去ってしまうと言う事だってあるだろう。

 

何処かのラーメン屋で、黒いTシャツを着て腕を組んでいる店主の写真が飾ってあったとするならば、それはきっとその「art」がかつて存在したフレーム、範囲、形式、様式、そんなものだけでもせめても追いかけたいと願う想いの現れだったりするのかもしれないし、追いかける気持ちだけは少なくともあるのだ!と言う看板、広告宣伝のたぐいの在り方なのかもしれない。

 

フレーム、範囲、形式、様式、それらはもしそこに「art」成分がもう含まれていない、かつて内包していた「art」がもうそこにはなくたってそのフレーム、範囲、形式、様式、自体はそこに存在し続ける事が出来るし、そのフレーム、範囲、形式、様式、は消費し切ることが不可能だ。

 

だって骨組みそのものは中身が空っぽになったってそこに存在することが可能だし、いや仮にもしその骨組みが物質的なものであればその骨組みとていつか朽ち果てようものの、例えば概念としての骨組みの様なものであれば、それを記述する言葉さえそこにあり続ければ、あるいは誰もが言語・言葉によって思考しようとするならば、やはりその骨組みはもうその言葉そのものによって破壊することが不可能なのだ。

 

少なくとも「art」とはその骨組みの中に存在する何かであることは言うまでもない。

 

 

さて。

たとえばその「art」とやらを価値と言う言葉に置き換えてみたならば、何の気なしにタイトルだけつけて書き始めようと思ったその筆者のイメージ、風合いについてちょっとはわかりやすくなるかと思ってそうしてみる。

 

「art」

=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」

 

と言う様な感じだろうか。

つまり、一般的に言ってそれは変態の産物であるが、その受け手側、人々の認識範囲がそこに追いつくことであったり、上位の概念が非連続的な何処からか生み出されてしまったりした瞬間にその「art」たるはその賞味期限を迎える。

すなわち消費されてしまうのだ。

 

表題(タイトル)の「artを消費する。」とはその様な事について。

 

 

・・・で。

その後半部分「artに消費される。」は、ある「art」=「価値」の上位の概念がその「art」の所属したフレーム、範囲、形式、様式、から生み出されようとするときに起こる。

 

そんな気がしたので書き始めてみた。

だからと言って、このまま幾らキーボードをタイプし続けたとてそれについて上手く記述し切れるかどうかはわからない。

 

とにもかくにも、書き始めてみたので頑張る。

そういう事だ。

 

 

例えばある人、そうだなAさんとでもしようか。

が、フリースタイルの日本語ラップをしたとして、それがとっても独特だったとしよう。

そのAさん以前にはそのような独特な、と言うよりそのAさんによって切りひらかれた日本語ラップの世界のとある領域、ある種の斬新さ、イノベーティブな部分・形、フォームと言うものはもし仮にそれ以前には存在しなかったとして、するとAさんはフリースタイルの日本語ラップと言う「フレーム、範囲、形式、様式」を拡張し新たな「フレーム、範囲、形式、様式」の部分を作ったと言う事になる。

 

そして、その部分を切りひらいた時点でのAさんのフリースタイルの日本語ラップには「art」な面持ちが備わる事だってあるだろうし、筆者がこの時点でAさんとしている人物には実在の人物が該当する。

そのAさんがこの文章を書き始める直前までのとある友人との酒のつまみ、話題だったと言う事なのだが。

(筆者とそのとある友人は二人ともAさんのファンだったので、それが話題の一つとなった。)

 

 

おっと。

話が本題からそれそうだ、軌道修正・・・。

 

 

そのAさんはきっと膨大な努力によって新しい領域に踏み入れる事に成功したのだ。

踏み入れた、踏み込んだその所までは良いとしよう。

 

もし、それを世間が認知、しかと認識してしまったとしたらどうだろうか?

 

Aさんが切りひらいた場所、地点、スタンス、その在り方の総体がもう、もはや「フレーム、範囲、形式、様式」として理解、記述可能なものとして世間がそれを認知したとする。

 

そうなれば、これはもうAさんは(仮にそれが場合によって大小あれども)スターである。

いわば新世界の開拓者、覇者。

 

 

が、同時にもうその『「フレーム、範囲、形式、様式」を切りひらくと言う形での「art」』の実現は不可能となる。。。

 

だって、切りひらいたこと、世間の中にその様な領域を切りひらいていく事、切りひらいた事そのものが「art行為」の一環だったのだとしたら、皆にそのことを認知され、その領域のスターターとして認識され、その立場をスタートさせた以降にはその様な事にしかなりえないからだ。

 

 

うん。

それはとても素晴らしいことなのです。

 

なぜならそれこそが筆者の目標、つまりその以降Aさんは「生きているだけで生きていける」と言う事を手に入れた(その効力、有効期限については不明であるが)と言うことなのだから。

少なくとも筆者にとっては素晴らしい事であると思える。

と書いてみている訳なのと、もうちょっと説明を続ける。

 

 

筆者の目指すところであると同時にと言う事なのであるが、すなわちAさんはそのスタイルで切りひらいた境地、それによって得た世の中からの認知・認識、そのことにより「独自なスタンスによって、社会・世界と斥候し領域を切り開き、獲得し全てを我が物にしていくその様、それそのものによって体現される、あるいは体現された「art」」それを以降踏襲と言う形によってしか、あるいはそのフレームすら捨て、すなわちすべての認知・認識以外の何処か他の場所に立ってもう一度同じ偉業を達成しなおす以外には同じ

「art」

=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」

を再度体現する事はもう不可能なのだ。

 

だって、とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのないと言う事がもうあり得ないのだから。

 

そう、もうすでにある「フレーム、範囲、形式、様式」は皆のものとなってしまった。

皆に、社会に、世界に帰属しうるものとなってしまったからなのである。

 

 

そんなAさんはすなわち「artに消費される。」側に回ったと言っても良いだろう。

 

自らの切りひらいた新世界で、皆に認知・認識されたもうすでに皆のものとなったその新世界で大活躍を続けるしかないのだ。

 

Aさんのその「新世界」について新規に触れる人にとっての「art!?」群、Aさんはそれらを作り続けながら、その独自のスタイルを貫き通すことを社会・世界(受け手側、受信して解読する側)から許された「art(と言うゾーン)に消費される。」側にまわったと言えるのであろう。

 

 

それは人生の中で、限りある命を使い切るまでのわずかなひと時その中で、あなたは「art」(=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」)を体現すると言う紛れもない偉業を達成した!

と言う最高の称号を得たことなのである。

 

最高だぜ!

全ての「art」の先駆者たちに惜しみなくそう思う。

また、願わくば自らもいつかそうなれるよう日々を努めたい。

筆者はその様に思うのだ。

とある野球部の話。

ちょっとあたまがモヤモヤするので、それを整理する意味で書き始めてみる。

 

近所に住む、そうだなAさんとしよう。

Aさんとわたしは仲が良く、日常的に飲んだり散歩したり旅行に行ったりなんかもする。

※以下は基本的にそのAさんから聞いた話が元になっている。

※なのでディテールやニュアンスにAさん補正、または筆者補正が掛かっていることがあるかもしれませんので、完全なノンフィクションとは言えないかもしれません。

※そんな訳で、いっそのことフィクションとして読んでください!ww ヨロピコ

 

 

そんなAさんはこれまた近所のとある飲み仲間の輪(長いのでそうだな仮に輪Xとしよう)に属している。

Aさんと仲の良いわたしもその輪Xの外環に触れる事がときたまある。

わたしがその輪Xに属していると言うよりはAさんを通して輪Xと触れる事があると言う様な風合い、おおまかにそんな感じ。

 

さて、Aさんはその輪Xの中心人物の中の何人かによって構成され現在立ち上げられようとしている野球部(仮)に参加することとなった。

この野球部(仮)の首謀者は主に2人との事である。

 

・野球にこだわって高校の部活のような感じで野球をやりたいYさん

(立ち上げた野球部(仮)を文京区の公式草野球リーグに参加することをひとまずの目標にしており、何なら生活の全てをそこに託しても良い!くらいの入れ込みようだそう。)

 

・野球が好きなこと集団の年長者であることや親分肌な人柄からまとめ役・監督の立場に就任することとなったZさん

(野球が大好きで経験も豊富だが、ようするに例えばキャッチボールをする事だったり野球にまつわる何かをして皆で過ごせたら良いなと言うのが主題。立ち上げた野球部(仮)を引っ張って例えばリーグ戦を勝ち進んで行くetc...的な方向性よりは皆が野球部を通して楽しく過ごせればと考えている。なので、野球は好きだが「野球」にこだわっていると言う訳でもない。たぶん。)

 

Yさんが主となり部に対しての提案・道筋・計画を立てていて、それに皆が付いていけるように各種調整や雰囲気つくりなどの役割をしているのがZさん。

おおまかにそんな感じみたい。

 

※以降、AさんとYさんが話の中心となります。

 

 

さて、Aさんはこんな感じの野球部(仮)が野球部(仮×2)だった時点でその時点で集まっていた皆と一度バッティングセンターに行ったことがあったそうである。

そして、その当日の指揮をとったのはYさんだったそうだ。

Aさんはもともと輪Xの中でも特別にある三人と仲が良く、その中の一人がYさん。

そんなこともあってかAさんはその皆で行ったバッティングセンターがとても和気あいあいで楽しかったし、参加者も皆楽しんでいたそうだ。

おそらくその時の皆の感触から、Yさんは野球部(仮×2)を野球部(仮)にシフトさせることが可能と考えたのだと思われる。※これはわたしの推理。

 

 

ここでひとつ説明を付け加えておく。

文章上でわかりやすいかと思って野球部(仮)野球部(仮×2)と書いているが、現場では「野球部」と言う単語しか使われておらずその意味合いが各個人や各時点における段階などで異なっている。

そのこと自体が問題を巻き起こしている気がする。。。

 

 

とある日。

Yさんは前述のバッティングセンターの会の次のステップとして野球場を予約したそうで「練習のため●月●日に球場を取ったので皆さま友達など誘って皆で野球しましょう!」のような内容を「野球部」のグループラインに投降したそうである。

 

それを読んだAさんは少し遠方に住む野球好きの友人を誘ったり、野球用のスパイクを購入したりと、楽しかったバッティングセンターの続き、その第二弾をとても楽しみにしたそうだ。

そしてAさんは輪Xのエリアとは少し離れた行きつけのバーの店主が持つ草野球チームから一緒に練習しよう(それなら試合形式の練習も出来るしね。)と誘われたことなどを「野球部」のグループラインに報告した。

 

するとYさんは、何故かそれを拒絶するかのような態度をとった。

「野球部のグループラインを荒らさないでください。」と。

 

??

なにそれ(笑)意味不明(笑)

と、わたしはAさんから話を聞いていて、そのグループラインも見せてもらってそう思ったのである。

まったく荒らしてないじゃんwww

 

もちろん、「まずは文京区、続いて東京都、そして関東を制し、ゆくゆくは草野球界での全国制覇。なんならそこを足掛かりに野球産業に食い込んでいく、下らねえ会社の下らねえ仕事を切り上げる!オレはオレの人生をそうやって切りひらく!yeah, say Ho!!・・・そこを目指して行こうとするのにどこかの知らねえ飲み屋のヘラヘラした野球チームと交わるだなんてこと提案してきやがるたあ組織をかき乱す大変な荒らし行為だ。テメーだけはぜってーにゆるさねえ!!」的な方向性の思考がもしもYさんの脳内で繰り広げられたのだとしたら、意味は不明ではなくなり、Aさんのしたことはとんでもない荒らし行為だと言う事にはなるのでしょうが、、、。

 

あるいは「野球部のグループラインを荒らさないでください。」と言った理由は別であったのかもしれませんがいずれにせよYさんは説明不足過ぎだし、野球部にポジティブに参加しようとするAさんの気持ちをあまりにも軽く扱っていると思うし、だったらそもそも「練習のため●月●日に球場を取ったので皆さま友達など誘って皆で野球しましょう!」のような内容を「野球部」のグループラインに投降する事がどのようなニュアンスで皆にそしてAさんに伝わるのか考えるべきだと言う事です。

 

もちろん!

「考えるべき」だと言うことはあるパラダイム(認識範囲)の範囲での話であり、パラダイムの食い違い、あるいはパラダイムが突如としてシフトすること、その可能性、それらを常に前提とするならば「考えるべき」と言う文言はその刹那に意味を失うのであろうが。。。

 

 

さて話を続けよう。

そんな訳で、上記の一件以降Aさんはとっても楽しい気持ちから、仲良し飲み仲間のYさんから疎外された気分がして辛い・・・と言う気持ちの落差でテンション激下がり。

野球部に参加することに何だか前向きになれなくなったし、少し遠方に住む野球好きの友人を誘ってさえいなければもう練習にだって参加したくなくなっていた。

球場での練習に人数がギリギリしか集まっていなかったのならそういう意味でも一度は参加すると表明した手前行かなきゃと言う事もあろうが、どちらかと言うと予想外に人数が集まってしまって予定した練習の内容を変更しなきゃ行けないかもなあ、時間たんないかもしれないなあ的な雰囲気もあったそうで(※Aさん談)、もうとにかく少し遠方に住む野球好きの友人を誘ってさえいなければAさんはもう野球部から脱退したかったそうだ。

 

 

で、バッティングセンターに続いての野球部練習二回目@某野球場グラウンド。

その当日。

 

わたしは休日であったためAさんとその友人を球場まで車で送り届け、皆が集まるまで球場前のスペースで少しばかりキャッチボールをしてからお買い物に出かけた。

お買い物終了。

ちょうど野球も終わったかなあと思い、打ち上げの飲み会だけ混ぜてもらおうかなあと思ってAさんに連絡ののち飲み会に合流。

わたしの他にも打ち上げ飲み会だけ参加の方はいました。

 

で、あのバッティングセンターからは予想もつかない軍隊的な練習メニューをこなし、飲み会も終わり、Aさんはひと仕事を終えた気持ち、途中から乗り気ではなかったがとにかく誘った友人にもきちんと対応できたし良かったなあと安堵感でいっぱい。

 

 

・・・ここで登場人物をひとり追加しよう。

Aさんはもともと輪Xの中でも特別にある三人と仲が良く、その中の一人がYさんだったそう。と書いたが、その三人のうちのひとり、そうだなQさんとでもしよう。

そのQさんはその打ち上げ会場の居酒屋店員であった。

それもあってか、野球部には参加していなかったけれどとにかく輪Xの中心人物のひとりでもあり、打ち上げ参加者もほぼ皆がQさんのことを知っていた。

ちなみに、その当日の昼間にもAさんとQさんふと道で会った際に今度の遊びの予定をちょっと打ち合わせつつの談笑を交わすなどいつものように楽しくしていたそうです。

 

 

・・・打ち上げ終わって退店の際に謎の事態が起こる。

「皆様お疲れ様でした。よーお!パンっ!」みたいなZさんの締めのあいさつののち、二次会行く人は行く、帰る人は帰るみたいな感じで散り散りに。

(飲み会の途中でAさんの友人は先に帰っていた。家がちょっと遠いからね。)

Aさんは安堵感からかちょっと立ち尽くしていたのと、わたしも『うん、何だか大変そうだったけど頑張ったもんだ。お疲れ様っす。』と思いながら傍らに同じく立ち尽くす。

 

店の前にはAさんとわたしの2人、加えて散り散りを見送ったあとの居酒屋店員であるQさんも。

 

 

ここでQさんがAさんに向かってひと言「あとで説教があるから。」

安堵感からの急転直下Aさんは心をかき乱されました。

Aさんは店内に戻りQさんに説明を求めましたが「いまは仕事中だからあとで話す。もう閉店だしとにかく帰って!店内から出て行かないならもう怒るよ!」と言われ扉をぴしゃり、、、店から叩き出されました。

 

 

そろそろ付け加えておかないとAさんのイメージが上手く伝わらないかもなので書きますが、Aさんは精神障害者保健福祉手帳 障害等級判定基準(2級)を持つ、精神障碍者でもあるのです。

しかしAさんはわたしから見れば一般的に言ってもとてもまとも過ぎるし、一緒に行く旅行先だって寝る前にお薬はたくさん飲んでいるけどそれ以外は普通だ。

特に明かさない限りはほとんどだれも障碍者だとは思わないだろうし、輪Xの面々にはほぼ明かしていない事であったが。。。

 

 

Aさんの主な診断病名は双極性障害躁うつ病)なので、感情の落差には弱いのです。。。

いまだにYさんからは説明が無いそうな「野球部のグループラインを荒らさないでください。」事件から始まったおよそ10日ほどにわたる緊張状態から解かれ安堵感でいっぱい、きっと心がふうっと空っぽになったその刹那に、再びの思い当たる理由のない「あとで説教があるから。」からの説明を求めるも説明なしで店から叩き出すと言う客で行っている身としてはあまりにもな仕打ちを受けたAさんはショックを受け路上で泣きじゃくります。

 

Aさんからいろいろなメッセージやり取りの履歴や、当日昼間にQさんと会ったけれどそこでは何もなかったこと、などの話を聞きました。

と言う事は「あとで説教があるから。」からの流れは野球部と関係がありそうだ。

その線が濃厚。だって、あとは思い当たることはないのだから。

わたしとAさんはその様に判断し、今日この野球部の飲み会で何かがあったのか、もしあったならたまたまそのはけ口がAさんになっただけなのか、あるいは特に何もなくQさんがクレイジーなだけなのかを聞こうと思い、知らされた二次会の会場へ。

 

 

すぐそばにある二次会会場に到着。

二次会ではぐっと数が減りYさん・Zさんを含む野球部主要メンバーの5名になっていた飲み会の席に座り、わたしもAさんもボトルからウーロンハイを作って飲む。

Aさんは何事の無かったかのように楽しそうに振る舞う。

わたしとて酒は好きなのだから楽しいには違いないが、我々にはミッションがある。

楽しいだけじゃいられない。

 

 

わたしはそこにいた5人に聞いてみた。

「一次会の後、AさんがQさんからかくかくしかじかな仕打ちを受けた。Aさんにはこういう経緯があり思い当たる節がないそうなのだけれども、これは野球部と関係がありそうかどうか?知りませんか?」と。

少なくともわたしは輪Xのことも、野球部の事も良く知らないのだし、Aさんはショックを受けた直後だから見落としている事だってあるかもしれないが、それだって昼間には何もなく、夕方から野球して夜に飲んでいるだけ、それ以外には何もないんだからあるとしたらやっぱり野球部がらみか飲み会で何かがあった線が濃厚だから聞いたのだ。

 

 

するとYさんが「ここは飲み会の席なんだから愚痴たれんじゃねえ。黙れ。」的に一喝。

??

またしても意味不明である。

 

 

「一次会の後、AさんがQさんからかくかくしかじかな仕打ちを受けた。Aさんにはこういう経緯があり思い当たる節がないそうなのだけれども、これは野球部と関係がありそうかどうか?知りませんか?」と言うセンテンスが愚痴に聞こえたならば脳が壊れているか言語障害を患っているか以外ならば(もちろんそんなことはないのでしょうから)、仮に酒に酔ってるのか野球の話で持ち切りみたいな場にしたかったのかそんな事はわたしには知る由もないが、とにかく言語を使ったやり取りをする気が無い上(だって上記のセンテンスは愚痴ではないから)、わたしは輪Xや野球部内に仮に存在するかもしれないヒエラルキーにも属していない訳だが、にも関わらずのパワハラ的封殺を受けたと感じた。

 

だったらわたしはわたしのルールを実行しても良いのか?

それがどんな内容になるのかはわからないが謎のルールや謎のヒエラルキー設定を誰も知らないわたしだけの中で構築して、当然の様にそのルールの実行やパワハラ的な何かの実行を少なくともY!お前に対してはしても良いって事になるのか!?

(そういうゲームのルール説明をYはわたしにしたって事なの!?)

 

違うよね。

当たり前だ。

 

むかつきました。

ああ言うやつがいるから世界はいつまでも平和にならないんだ。

ぷんぷん。

 

 

そのあとかくかくしかじかがあって、「一次会の後、AさんがQさんからかくかくしかじかな仕打ちを受けた。Aさんにはこういう経緯があり思い当たる節がないそうなのだけれども、これは野球部と関係がありそうかどうか?知りませんか?」と言う質問の回答も二次会会場の野球部主要メンバーの皆から得る事が出来て、結局はQさんの謎行動は野球部とはおそらく関係がなさそうだとわかった。

 

 

これでAさんが見落としているか、Qさんがクレイジーな可能性にほぼ絞られた。

Yさんについてはもしわたしが総書記に就任したら即強制労働施設送りと言う事が決定した(冗談)。

 

 

いまだに「野球部のグループラインを荒らさないでください。」事件も、「あとで説教があるから。」事件についてもAさんはYさん・Qさんの両名から説明を受けていないそうだ。

 

あるいは、説明があったにせよ少なくともYさんについては人の立場や人の気持ちを簡単に踏みにじり過ぎなのでわたしに権限さえあれば強制労働施設へ入ってもらいたい。

(死刑よりは死ぬまで働いてもらった方が良いしね。※冗談。)

 

Qさんについては当人がクレイジーなだけならやっぱり強制労働施設(人権はとても尊重されますよ!たぶん。)、野球部に関わる問題ならこれまた別の問題、Aさんの勘違いならまあそれは仕打ちも仕方ないよねって話。

 

文章書いたら状況がまとまりました。

 

 

でも冒頭に書いたあたまのモヤモヤはやっぱり何だか晴れないなあ。。。

 

Yさんが野球の事となると見境がなくなる人だとして、しかもそのうえ見境が無くなっていることを気が付かずにいる。

前回の投稿で書いた「かくある」と言う言葉を使うならば、Yさんの主だった周囲もYさんのことを「かくある」人(Yさん=こういう人!)なのだと言うそれ以上でも以下でもない認識でいて、その前提のうえでYさんはその集団の中にいると言う事ならばやはり問題だって基本的には起こらないのだろうし、もしかするとわたしの方が何言いたいのかわからない細かいことごちゃごちゃ言うばかりのくそ野郎、排除すべき!くらいに表面には出さずとも心の中ではそう思われているのかもしれない。

 

そんな気がしたらもう居心地は良くない。

 

いずれにせよ。

わたしは一連を通してそう言うYさんの状態を目の当たりにしたって事ならば、自分も何かそうなることがあるかもしれない事を出来る限り少なくとも認識し日々を努めていきたいとそう思うばかりなのです。

(Qさんの一件についてはまだはっきりとしない謎のまま。)

 

 

兎にも角にも、何だかもやもや。

もやもや。

「かくある」ことを拒むと意見はなくなる!?

「僕は天才ではありません。

なぜかというと自分がどうしてヒットを打てるかを説明できるからです。」

 

マーリンズイチローが7日(日本時間2016年8月8日)に行われたロッキーズ戦の7回に三塁打を放ち、メジャー通算3000本安打を達成した。

メジャー史上では30人目の3000本安打達成。アジア人では初の達成。

 

冒頭の括弧書きはそのイチロー選手の言葉だそうである。

ぼくもそうありたいと思う。

何につけてもずっとそう思っている。

 

例えばもう一度味わいたいくらい楽しい事があったら、その「もう一度味わいたいくらい楽しい事」の成立要件がいったい何だったのかを考えて理解して知りたいと思うし、それを知ることによって出来事の内容は別の事でも楽しさの種類としては同じ事を味わう事が出来る可能性を上げる事が出来ると、少なくとも理屈はそう言うことだと思うからだ。

 

イチロー選手の言葉にも出てくる「天才」と言う単語があるが、彼の言葉の中でもそうだし、おそらく世間が彼に対して使った意味でもそうだし、一般的に言ってつまりそう言うことだと言うことになるのだと思うが、先のたとえ話で言えば

「天才」=「何も考えないで何も知らないで何度でもいつでも何らかの楽しさを味わい続けている人」

「天才」=「何も考えないで何も知らないで何度でもいつでもヒットを打つことが出来る人」

と言うことなのだろう。

 

自分がどうしてヒットを打てるかを説明出来ないけど、ヒット打てちゃうんだよね。

少なくともこれが就活の面接での言葉だったりしたならば、もしぼくが面接官なら落とします。

性格悪いとか言われそうだけど、常に客観的なスタンスでもきちんと言語的に成立しうるエビデンス(根拠)を用意しろ。そう思う訳です。

 

さて。

いつでも何にでも「エビデンス(根拠)」を用意しろと考えていくと、いつしか人は何ものでもなくなります。

もしそれを究極まで推し進めるのならば、その存在はつまり単なる客観的要素そのものとなるでしょう。

自我・アイデンティティ(主体性。自己同一性。)などと言ったものは解体され、自らは自らと言う言葉のくくりから解き放たれ、客観的要素そのもの宇宙と一体化しその存在は具象から抽象へ、魔法少女まどか☆マギカのラストシーン同様にその存在は概念へとシフトし、手塚治虫先生風に言えばコスモゾーンの一部として溶けていくことでしょう。

もしかするとその極まりし地点を観念として認識すること、それを仏陀が「悟り」と表現したのかもしれません。

もし仮にアナタがそれを達成するならばアナタは一対一対応する何かとして存在することはなくなり、アナタと言う存在は消滅したと他者から認識される事となるでしょう。

 

なぜそうなの?どうして?

考えれば考えるほど、そしてそう考えるのをやめないのならば人はきっと何ものにもなる事はないのだと言うことなのです。

 

再びのさて。

誰かが誰かを認識するとき、その誰かは誰なのか?とその様に認識するわけです。

「なぜそうなの?どうして?」と考え続け、「これはこういう事です。」「かくあるのです。」と言い切り形で発言することを自らの人生から排除し、「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続ける人物※仮にAさんとしましょうか。がいたとするならば、そのあまりにも客観性の高い存在であるAさんは周囲からAさんと言うフレーム(Aさんとは○○と言う範囲の内側にある存在。)をとても認識されがたい事でしょう。

 

フランス出身の哲学者、ルネ・デカルト(1596年~1650年)は「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったそうですが、Aさんとて主体的な存在としてのAさんが「なぜそうなの?どうして?」と考え続けていることは重々承知なわけですし、Aさんが自身の選択として「これはこういう事です。」「かくあるのです。」と言い切り形で発言することを自らの人生から排除すると言う選択肢を取っていて、Aさんが「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続けている事はもちろん言葉通りそのまんまだとわかっていることも言うまでもないならば、やはりこのデカルトが言う「われ思う、ゆえにわれあり」のフレームから解き放たれることはありえない訳です。

 

すなわち、仮にと設定してみた架空のAさんでさえ、そのAさんがAさん自身によってAさんであることから逃れる事は不可能なのですから、Aさんは幾らどんな手を尽くそうと、AさんがAさんによって手塚治虫先生言うところのコスモゾーンと一体になるだの、AさんがAさんによって魔法少女まどか☆マギカのラストシーン同様にその存在が概念へとシフトしたりする事を達成することは叶いません。

 

すなわち、AさんはAさん的ライフハック術、AさんがAさんらしく生きる事、Aさんが自らの命の使い方として選択するその在り方、それらをどんなに推し進めてもAさんはAさんとして「かくある」のだと言うことです。

AさんはAさんとして「かくある」。

 

しかしそれでも、Aさんは「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続けます。

地動説は間違っている!(あるいは少なくとも間違っているかもしれない!)などのような立場を取り続ければいつかはそれが覆され、「あ、すんません。地動説は間違ってましたww これからは天動説で行きましょう。」みたいなことになるかもしれない、すくなくともその可能性はいつだって否定できない。

Aさんは可能性、より良くより良くなる可能性、その積み上げの先にあるかもしれない信じられないくらい素晴らしい未来を願っています。

だからこそAさんは「かくある」ことをかたくなに拒みます。。。

 

するとどうなるか。

周囲の人々はAさんの事をこう捉えることでしょう。

「自分の意見を持たない人。」

「何を目的として生きているのか良くわからない。その割に理屈をこねくり回し続ける気持ち悪い人。」

例えばそんなふうに・・・。

 

意見と言うのは「私はXはYであると思う。」のように何かを言い切る事の様な気がします。

しかし、Aさんはそれをかたくなに拒んで生きているわけですから、Aさんは意見を持たない人と言うように周囲はそう捉える事でしょう。

 

Aさんとて「私はXはYであると思う。」と言う瞬間は当然ある訳です。

しかし、良く考えてみると「XはYであると同時にZとも言える。」とか「XはYであるかのように思えたが、Yと言うのはその上位の構造であるZの一部に過ぎなかった。」などと言ったように「X=Y」が覆されることがあまりにも多すぎたり、それゆえにもし仮に「X=Y」を覆すことが現時点で叶わなくても「X=Y」はきっと覆しうる物事だとAさんは分類することでしょう。

 

だから、Aさんは「私はXはYであると思う。」と言う発言をしません。

そう言ったあり方をする「意見」と言うものを述べる事をしません。

だからと言って、ひよっているわけではありません。

むしろもの凄く攻めた姿勢で生きています。

 

もちろんAさんとて、その場にとって意見としての意見が必要な時は「アイディア」と言う形で何らかの発言をする事はあるでしょうが、やはりその場と言うものが他者によって規定されない余暇の時間などには「私はXはYであると思う。」のようなことは口にしません。

例えば「(私は)君の事が(特別・格別に)好き(な存在)だ。」なんて容易に覆しうるようなことはもちろん言いません。

オラオラ系の真逆的存在。

しかし、脳内ではものすごーくオラオラしています。

目の前の物事をいち早く破壊し解体して、辞書に載せられるような客観的な言葉に組み替える。

そう再生成。

 

もちろん単語の組み合わせではなく「キミノコトガスキダ。」と言う区切れなくひとつながりの記号としての音声ならば必要に応じて言うのかもしれません。

Aさんにとって何か意見のようなことを言うためにはその様なややこしいプロセスが必要です。

 

こんなAさんはやっぱり周囲から「Aさんってこういう人だよね。」と認識されづらいです。

主だった周囲からは「何が言いたいのかわからない人。」に過ぎません。

だって、言いたいことが生まれるやいなや、それを解体して客観的な物事に組み替えてしまいたい人なのですから「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておけないような人、「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておきたくない人なのですから、そりゃあ周囲からしたら「何が言いたいのかわからない人。」としかとらえようがない事でしょう。

 

「かくある」ことを拒むと意見はなくなる。

あるいはそう言う方向に進むことになります。

 

・・・と言うAさんは筆者であるわたしの事だったりします。

 

発言に責任を持ちましょう。

例えばその観点からだって、「かくある」は常に覆しうるならばその「かくある」は拒まねばならないとも言えますし、とにかく自分は「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておきたくない人で、その部分だけで言えばイチロー選手とおんなじだったりするのかもしれませんが、イチロー鈴木一朗さんの野球選手としての一側面に過ぎず、野球を離れた、野球を切り離した個人としての鈴木一朗についてであるならば、やっぱり「何が言いたいのかわからない人。」と言うことになるのでしょう。

野球とセットで鈴木一朗さんの野球選手としての一側面であるイチローについては理解できるけれど、野球がなければやはりAさん同様に彼のことを周囲が上手く理解することは難しいのでしょう。

 

前回投稿したようにわたしの人生の目標は「生きているだけで生きていける」ことなのですが、その実現のためには他者から「かくあるAさんとしてのわたし」と言う認識を得る事がおそらく必要で、もしこれをイチローなら野球、筆者なら音楽と言うものを抜きにして(でないと、「生きているだけで」「生きていける」が何だか達成されないような気がする)得る事について考えてみるとやはりこれはもの凄く難しい事の様に思えます。

 

難しいと言うか、これはほとんど他者のリテラシー(読解記述力)、つまり他者が「わたし」のことを読解すると同時に「わたし」とはこういう存在であると記述し認識することに依存していることなので、そもそもわたしにはこの問題について関わりにくい、あるいは関わることが不可能な部分すらあるとしたら、つまりほぼ、または絶望的に不可能だと言わざるを得ないのかもしれません。。。

 

ならば、やはりどこかで思考ストップする。

思考ストップさせる地点、つまり立場を明確にすることが必要で、それは鈴木一朗さんにとっては野球選手としてのイチローであったり、あるいは音楽家としてのわたしだったり、「ある立場上のわたし」と言うものを設定する必要があるのかも。

 

それはいったい何なのでしょうねえ。

ひとくちに野球選手と言ったっていろんなタイプの選手がいるでしょうし、音楽家もまたしかりです。

ならば結局、立場のはっきりした野球選手と言うのも、立場のはっきりした音楽家と言うのもそれぞれに膨大なバリエーションが存在することになりますし、そして事実これらは存在しているわけです。

 

立場のはっきりした○○と言う膨大なバリエーションの中からたったひとつの「かくある」を選択し設定すること。

「かくある」ことは「X=Y」だと言い切ること。

 

だとするならばやはりわたしは「かくある」ことを拒みたくなってしまうのです。。。

※以下無限ループ。

人生の目標は「生きているだけで生きていける」こと。

ふと何か書いてみようと思う事がある。

そしていつだったか、たしか10年近く前に書いてみた小説「万作」全七話をひとまず アップしてみる事でブログを作るところまではやってみたのである。

mansaku.hatenablog.com

 

それからちょうど半月が経ったが結局なにも書いていない。。。

これではいかんと思ってパソコンの前に座ってみたと言う訳である。

 

・・・まずは自分のことから書いてみたいと思う。

ここ10数年ギターを弾いたり教えたりして暮らしている。

都心の某大学の理工学部・土木工学科を卒業して以来と言う感じだ。

(なぜそのような経歴となったかについてはいつか書くかも知れない。書かないかもしれないけど。)

 

おととし個人名義でメジャーデビュー盤を出したしそれに伴って、あるいはそれに伴わずとも自分のライブもやり続けている(アーティスト業)、先日は参加しているバンドでフジロックに出たりもした(ミュージシャン業)。

ジャズの分野が主であるが、ロックフェスにも出たりする。

自分の作曲がテレビなどでかかったりするといくばくかの著作印税も振り込まれたりする(作家業)。

そんな感じ。

 

とにかくおおざっぱに言ってその様な仕事をしていて、これでだいたいの年齢と仕事の雰囲気が伝わればそれで良いと思う。

 

で、なにを書こうかと言うことなのであるが、最近目にした言葉で、

「精通していて、利他的である」これが、あらゆる営業活動の大前提。

と言うものがあった。

 

とても深く「うん、そうだな。」と思った。

わたしは会社勤めをした事がないので、もしかするとこれは新入社員にまずはじめに言い渡されるような社会人の基本みたいな事なのかもなとも思った。

 

それで思ったことがある。

先に書いたわたしの仕事についてであるのだが、

・アーティスト業(わたしが商品)

・ミュージシャン業(技術が商品)

おおまかにこんな感じの前提とすると、「精通していて、利他的」これを達成しようとした場合に「技術が商品」の場合は水のトラブルの際に呼ぶク〇シアンや、バカボンのパパみたいな植木屋さん(彼が植木に精通しているのかは不明だが・・・)、調理師・料理人、床屋さんに美容師、ソムリエやプロ野球選手だってここに当てはまるので何だかとってもわかりやすい気がする。

 

・アーティスト業(わたしが商品)

の場合にはどうだろうか。

ただし、ここで題材にするのはアーティスト業、しかもステージパフォーマンスをする類のってことに限定したい。

自らが主となりプロジェクトを仕切って音楽を演奏・歌ったりとか(誰かのバンドに従として参加してという事でなく)、芸人さんとか、ダンサーとかetc...

 

と言うのは、例えば同じアーティストでも画家や書道家、彫刻家などの造形家、文筆家だって、あるいは音楽の分野でも作曲家や(わたしにもその部分がある)、ライブをやったり動画に登場したりなんて事はやらずに録音物を作るのみと言う場合などは作者の手から完全に離れていても、仮に作者不明でもその作品に価値が見出されさえすれば商売(と言う言葉が適切かはわからないが、アーティストとて衣食住費や税金だって払わなきゃ行けないので稼がにゃならん。)が成り立ってしまう。

なんなら「あの時のアレ、売れたんだ。へぇ。」みたいな感じでも成り立つと言うことだから、作品が売れさえして必要なお金さえ稼げるならば自らに没頭して作品作りのことだけ考えて生きて生涯を終えることだって可能だ。

(ただしこれはとってもひと握りの人たちの世界だけれどもね。)

 

つまりこの人たちの場合は「わたしが商品」ではなくて、「わたしが作ったものが商品」なのだ。

いわゆる作家業。

もちろんその「わたし」自身にも何らかのタレント性があればその「商品」はより良く売れることでしょう。

 

しかし、ステージパフォーマンスをする類のアーティスト業の場合はどうだろうか。

ここには確実にタレント業の側面が加わる訳だ。

ようするに視覚的な情報がどうしても入ってしまうのだから、それを除外してはどうしても語れないと言うことだ。

 

場合によってはそれが本質的にアーティストであるかは別の話だけれども視覚的な情報から得られる満足度がかなり高く、本人が本気でそう思って表現されている内容もわかりやすい場合になんかは他者からその個人に価値が付与されやすいし、お金に変える仕切りさえ上手くやれば少なくとも「アーティスト業」は成り立ってしまう。

あるいは、本人が本気でそう思って表現されている内容もわかりやすくて、その内容がともするとある種のライフハック術的な利用価値があるものならば(よく考えればその内容があまりに平易でも)、その見た目も含めた個人に価値があることになって「わたしが商品」が成り立つこととなる。

 

誰かから与えられた内容を実演しているだけだったりした場合には、その運営サイドにとって「わたし」は商品とされている。

という事になるだろう。

とした場合でも、「わたしは"わたしの実演を他者に商品とさせること"によってわたしの生業を成立させている」のだから、何だかややこしい言い方をしたが要するにアーティスト業である事にはたぶんきっと変わりがない。

 

アーティスト業と言うのはそう言う意味合いのことを言いたくて使ってる言葉で、その中で『"わたしが" "わたしを商品として"生きていく。』と言うケース・あり方について話をしたいのだ。

 

ではここで元の話題「精通していて、利他的」に戻るが、この場合でそれを達成するには「わたし」についてわたしが精通していて、その「わたし」は利他的であると言うことが必要な訳だが、これはなかなかとっても難しい。

 

芸術表現とされるようなくくりの物事は要するに「記号・抽象化された何らかの複雑に組み合わされることによってそこから薫り立つひと言ではうまく言えないような何か。」と言うことだと思うので、その上で利他的であるとするならば「ひと言ではうまく表しにくい程度まで抽象化した何か。(アイキャッチ・イヤーキャッチetc... 添え)」と言う地点を目指すということになってしまう。

 

まとめれば。

「世間的に言えば変わり者の部類でひと言では何だかうまく言い表さないような人種」である事がわかりやすい人が、アイキャッチを添えて、例えば音楽を演奏したとすると、その音楽の内容はほとんど何でも良かったとしてもアーティスト業に従事するアーティストと言うあり方が成立してしまう。

 

(*'へ'*) ンー

 

これは音楽のアーティストではないが、「音楽のアーティスト」だよなあ。

作家業をして生きていけるだけのその分野への造詣がなくても良いし、兎にも角にもそれは「音楽のアーティスト」に違いない。

 

アーティスト業を志すということはつまりこう言った中で、それらを競合他者として暮らしていける分くらいのお金を得る程度を最低限にして勝ち続けていくと言う事なのだ。

 

逆に言えば、暮らしていける分くらいのお金を稼ぐ事さえ叶っているならば少なくとも最低限の勝ちを手に入れていると言うことだし、「わたしはわたしを商品として生きていけている」と言うことだ。

 

ちなみにこの文章を書いているわたしはと言うと、繰り返しになるがアーティスト業と、ミュージシャン業(技術提供業)、それに伴う形での作家業の部分(自作曲を録音したり演奏したり、それが放送に使われたりetc...)からくる著作印税の収入を合わせてこの10数年を生き延びてきた。

まとめて言うと音楽家と言うことで、確定申告のときに業種の欄にもそう書いている。

 

わたしの人生の目標は

「生きているだけで生きていける」こと。

なのですが、ここまでで説明して来た「アーティスト業」と言うあり方はとってもそのイメージに近い気がするんです。

 

願わくば「アーティスト業を生業とするアーティスト」を目指したいわけですが、その地点に向かって行くために『「精通していて、利他的である」これが、あらゆる営業活動の大前提。』と言う、ともすると新入社員にまずはじめに言い渡されるような社会人の基本みたいな事についていま1度よく考えてみることがとてもヒントになりそうだなあと思ったのでした。

 

でもまだ何だか語り切れるほどわかった気がしないですし、もっとよく考察したいし、もっとよくわかりたいです。

(って言うか、アーティスト業だけで生計が立ったその時点になるまでは何だか良くわからんのかもなあ。)

 

とまあ、もしこれを読んだ方でご興味湧いた方などいらっしゃいましたらご一報ください。

(出来れば都心で)酒でも飲みましょう。

 

で、これでひとまず急転直下。

本記事いきなり終わり!

 

そんな一席でございました。

ちゃんちゃん。 

『万作』⑦昼間の終わり〈終〉

『万作』
■ 第七章 昼間の終わり


◆ 「隣の席でソーダ水を飲んでいた男」

万作は家へ着くと、ジョン吉に自分の名前を言わなかった事に気が付いた。
だから、ジョン吉にとっての万作は「隣の席でソーダ水を飲んでいた男」あるいは、それ以外の何かだったのかもしれないなと思った。

何かだとしたら、何だったのだろうか。


そして、ジョン吉にとっての自分は今頃「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念」の中に取り込まれてしまったのかもしれないとも思った。

自分、あるいは「隣の席でソーダ水を飲んでいた男」、またはそれ以外の何かは、そこでジョンやポリタンに会う事が出来たのだろうか。


◆ 消滅。

自宅の電話には阿部熊三からの留守電が録音されていた。
録音を再生すると、キャンセルになった原稿がやっぱり必要だと、キャンセルのキャンセルを告げるメッセージが万作に伝えられた。


「伝える為でも無ければ、伝わる為でも無く存在する文字列。」は消滅した。

すると、万作は何だか救われたような気持ちがして「新しい方の仕事」に取り掛かった。


その頃には昼間はとうに終わりを告げていたが、万作の心には「酷く晴れた空」の様な気持ちが広がっていた。

そんな一日のお話。

『万作』⑥あるロボットの話

『万作』
■ 第六章 あるロボットの話


◆ こう終わっていくべきなのかもしれない事。

「ポリタン」と言うロボットがいるのだそうだ。
だけど、隣の席に座る男が言うには、正確には「ポリタン」と言うロボットはもういないのだという。

さっきまで確かにいたような気がしたのだが、もういないのだそうだ。


「良く思い出せないのだが、喋々が飛んでいた。」のだとも、隣の席に座る男は言う。
空が酷く晴れていて、「ポリタン」はとても楽しそうなのだと、そう話すのだ。


万作は「夕方の西日の強さの事は考えないのか。」と、隣の席に座る男へ問い掛けた。

隣の席に座る男は「今はまだ14時57分だから。」と言った。


気がつくと、万作が喫茶メルヘンに着いてからすでに、二時間が過ぎていた。
万作は、憂鬱な昼間はこう終わっていくべきなのかもしれないと思った。


◆ 二度と思い出せなかった事。

隣の席に座る男の話を聞いていく内に、もしかすると「ポリタン」は、「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念」の中に存在するようなロボットだったのではないかと、万作は思った。

隣の席に座る男の話はどうもその様な雰囲気を持っていたし、あるいは万作がその世界の虜だったからかもしれない。


万作は気になって、隣の席に座る男にその事を聞いてみようと思った。
「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念」の事をである。


隣の席に座る男は、自分の名前が「ジョン」であると確信した理由ももしかしたら、その中に取り込まれてしまったのかもしれないと言った。


万作の隣の席に座る男は「ジョン吉」と言うらしい。

彼が自分に付属する名称を「ジョン」であると確信した理由が「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡の持つ思念」の中に取り込まれてしまったのかもしれないのだとすると、その「ジョン」が入った「ジョン吉」と言う名称はとても奇妙な感覚を持っていると万作は思った。

そして何故だか哀しかった。


何故哀しいのかは万作にもわからなかったし、ジョン吉にそれを聞くと、ジョン吉は「もしかしたら、ポリタンはジョンに会えたのかも知れない。」と言い、「だから哀しくないはずだ。」と言った。

万作はそうかもしれないと思ったが、どうしてそう思ったのかは二度と思い出せなかった。

『万作』⑤隣の席に座る男と、隣の席に座る男の会話。

『万作』
■ 第五章 隣の席に座る男と、隣の席に座る男の会話。


◆ あまり興味がわかなかった事。とても気になった事。

ジョン吉は「ポリタン」の事を考えていた。
考えていたのだけれど、目の前の皿が空になる頃には「ポリタン」は何処かへと消えていた。

消えていたと言うと正確では無いのだが、つまり「ポリタン」の事を良く思い出せなくなっていた。


隣の席に座っている男と会話を続ける。

ジョン吉は、湯気を立てているナポリタンと、湯気を立てていないナポリタンの違いについて、少し言いたい事があったが、その事は言わなかった。

「メルヘンナポリタン」と「ポリタン」の関係についても言おうと思ったが、皿が空になってしまったとたん、上手く言えなくなってしまった。
イメージの焦点があわなくなってしまったのだろう。


時折、その様な事に気を取られては、少しぼんやりしてしまう自分の事を隣の席に座る男はどう思うのだろうかと考えると、何だか申し訳ないような気分がしたが、その「何だか申し訳ないような気分」の正体について考え出す事には、あまり興味がわかなかったので「助かった。」と思った。

しかし「ポリタン」の行方について考えると、とても気になった。


◆ 重要な事では無い可能性が高いと容易に想像される事。

万作は隣の席に座ってナポリタンを食べる男と会話をした。
そして、ナポリタンを食べ終えた男とも会話をした。


隣の席に座る男は、夢想に耽る様に時折ぼんやりとした様子を見せていたが、それは万作の発する問い掛けが「隣の席に座ってナポリタンを食べる男」を困惑させてしまったのかもしれないと思った。

なぜなら。
例えば「ナポリタンの名称は、どんなナポリタンだって「ナポリタン」で十分。」であるかどうかなど、隣の席に座る男にとって重要な事では無い可能性が高い事は容易に想像されたからである。


そんな時だった。

隣の席に座る男はあるロボットの話をはじめた。