artを消費する。artに消費される。
と言う表題(タイトル)を書いてみた。
ここから始めてみるわけだ。
あるとき。
それはたぶん筆者が中学二年生とかそのくらいかな。
なんかロックがカッコ良いと思って、それでフォーク世代でたまたまギターを何となく所有していたと言う伯父さん(母の兄)から、その千葉県銚子市にある母の実家の母の兄のかつての自室から無理やりギターを借りて来てわたしはギターを手にした。
そのときのわたしは、あるいはもちろんのこと今でもそのロック音楽から「art」とやらの片りんを感じ、そしてそれに憑りつかれてきた。
きっと「art」とは個人に宿るその個人の命のエネルギーがある形式や様式の範囲に収まって、ないしその形式や様式の範囲を拡張し、あるいは拡張し続けると言う様な形でそこにそのまんまの「その人らしさ」ほかの誰でもないその個人の命のエネルギーそのものみたいなものが込められて、封じ込められていること・ものな気がする。
だから、もし仮にそれを定義とするならばそれ(art)はロックにだって、それ以外にだって込める事が、込められることが可能だろう。
ってそんなの当たり前だって!?
その通りです(笑)
例えばわたしはタイトル文に使ってみた言葉「art」に対してそう言う捉え方をしていると言う事だけを言いたかった。
しかし、その「art」たるはいつしか社会やかくかく各々の個人によって消費されて失われてしまう。
ものによってはそれがどんなに最高の「art」だったにせよ、生まれると同時にその「art」たる部分が消費され失われ、その見事なフレームワーク、その「art」が何らかの形式や様式の範囲において語りうる少なくとも事実、少なくとも語りうる何かであったと言う事において保存され得るものの、その肝心要の「art」そのものは消え去ってしまうと言う事だってあるだろう。
何処かのラーメン屋で、黒いTシャツを着て腕を組んでいる店主の写真が飾ってあったとするならば、それはきっとその「art」がかつて存在したフレーム、範囲、形式、様式、そんなものだけでもせめても追いかけたいと願う想いの現れだったりするのかもしれないし、追いかける気持ちだけは少なくともあるのだ!と言う看板、広告宣伝のたぐいの在り方なのかもしれない。
フレーム、範囲、形式、様式、それらはもしそこに「art」成分がもう含まれていない、かつて内包していた「art」がもうそこにはなくたってそのフレーム、範囲、形式、様式、自体はそこに存在し続ける事が出来るし、そのフレーム、範囲、形式、様式、は消費し切ることが不可能だ。
だって骨組みそのものは中身が空っぽになったってそこに存在することが可能だし、いや仮にもしその骨組みが物質的なものであればその骨組みとていつか朽ち果てようものの、例えば概念としての骨組みの様なものであれば、それを記述する言葉さえそこにあり続ければ、あるいは誰もが言語・言葉によって思考しようとするならば、やはりその骨組みはもうその言葉そのものによって破壊することが不可能なのだ。
少なくとも「art」とはその骨組みの中に存在する何かであることは言うまでもない。
さて。
たとえばその「art」とやらを価値と言う言葉に置き換えてみたならば、何の気なしにタイトルだけつけて書き始めようと思ったその筆者のイメージ、風合いについてちょっとはわかりやすくなるかと思ってそうしてみる。
「art」
=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」
と言う様な感じだろうか。
つまり、一般的に言ってそれは変態の産物であるが、その受け手側、人々の認識範囲がそこに追いつくことであったり、上位の概念が非連続的な何処からか生み出されてしまったりした瞬間にその「art」たるはその賞味期限を迎える。
すなわち消費されてしまうのだ。
表題(タイトル)の「artを消費する。」とはその様な事について。
・・・で。
その後半部分「artに消費される。」は、ある「art」=「価値」の上位の概念がその「art」の所属したフレーム、範囲、形式、様式、から生み出されようとするときに起こる。
そんな気がしたので書き始めてみた。
だからと言って、このまま幾らキーボードをタイプし続けたとてそれについて上手く記述し切れるかどうかはわからない。
とにもかくにも、書き始めてみたので頑張る。
そういう事だ。
例えばある人、そうだなAさんとでもしようか。
が、フリースタイルの日本語ラップをしたとして、それがとっても独特だったとしよう。
そのAさん以前にはそのような独特な、と言うよりそのAさんによって切りひらかれた日本語ラップの世界のとある領域、ある種の斬新さ、イノベーティブな部分・形、フォームと言うものはもし仮にそれ以前には存在しなかったとして、するとAさんはフリースタイルの日本語ラップと言う「フレーム、範囲、形式、様式」を拡張し新たな「フレーム、範囲、形式、様式」の部分を作ったと言う事になる。
そして、その部分を切りひらいた時点でのAさんのフリースタイルの日本語ラップには「art」な面持ちが備わる事だってあるだろうし、筆者がこの時点でAさんとしている人物には実在の人物が該当する。
そのAさんがこの文章を書き始める直前までのとある友人との酒のつまみ、話題だったと言う事なのだが。
(筆者とそのとある友人は二人ともAさんのファンだったので、それが話題の一つとなった。)
おっと。
話が本題からそれそうだ、軌道修正・・・。
そのAさんはきっと膨大な努力によって新しい領域に踏み入れる事に成功したのだ。
踏み入れた、踏み込んだその所までは良いとしよう。
もし、それを世間が認知、しかと認識してしまったとしたらどうだろうか?
Aさんが切りひらいた場所、地点、スタンス、その在り方の総体がもう、もはや「フレーム、範囲、形式、様式」として理解、記述可能なものとして世間がそれを認知したとする。
そうなれば、これはもうAさんは(仮にそれが場合によって大小あれども)スターである。
いわば新世界の開拓者、覇者。
が、同時にもうその『「フレーム、範囲、形式、様式」を切りひらくと言う形での「art」』の実現は不可能となる。。。
だって、切りひらいたこと、世間の中にその様な領域を切りひらいていく事、切りひらいた事そのものが「art行為」の一環だったのだとしたら、皆にそのことを認知され、その領域のスターターとして認識され、その立場をスタートさせた以降にはその様な事にしかなりえないからだ。
うん。
それはとても素晴らしいことなのです。
なぜならそれこそが筆者の目標、つまりその以降Aさんは「生きているだけで生きていける」と言う事を手に入れた(その効力、有効期限については不明であるが)と言うことなのだから。
少なくとも筆者にとっては素晴らしい事であると思える。
と書いてみている訳なのと、もうちょっと説明を続ける。
筆者の目指すところであると同時にと言う事なのであるが、すなわちAさんはそのスタイルで切りひらいた境地、それによって得た世の中からの認知・認識、そのことにより「独自なスタンスによって、社会・世界と斥候し領域を切り開き、獲得し全てを我が物にしていくその様、それそのものによって体現される、あるいは体現された「art」」それを以降踏襲と言う形によってしか、あるいはそのフレームすら捨て、すなわちすべての認知・認識以外の何処か他の場所に立ってもう一度同じ偉業を達成しなおす以外には同じ
「art」
=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」
を再度体現する事はもう不可能なのだ。
だって、とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのないと言う事がもうあり得ないのだから。
そう、もうすでにある「フレーム、範囲、形式、様式」は皆のものとなってしまった。
皆に、社会に、世界に帰属しうるものとなってしまったからなのである。
そんなAさんはすなわち「artに消費される。」側に回ったと言っても良いだろう。
自らの切りひらいた新世界で、皆に認知・認識されたもうすでに皆のものとなったその新世界で大活躍を続けるしかないのだ。
Aさんのその「新世界」について新規に触れる人にとっての「art!?」群、Aさんはそれらを作り続けながら、その独自のスタイルを貫き通すことを社会・世界(受け手側、受信して解読する側)から許された「art(と言うゾーン)に消費される。」側にまわったと言えるのであろう。
それは人生の中で、限りある命を使い切るまでのわずかなひと時その中で、あなたは「art」(=「(とても個人的個人から発せられるその個人にしか帰属しようのない)価値」)を体現すると言う紛れもない偉業を達成した!
と言う最高の称号を得たことなのである。
最高だぜ!
全ての「art」の先駆者たちに惜しみなくそう思う。
また、願わくば自らもいつかそうなれるよう日々を努めたい。
筆者はその様に思うのだ。