万作の日記

人生の目標は「生きているだけで生きていける」こと。

「かくある」ことを拒むと意見はなくなる!?

「僕は天才ではありません。

なぜかというと自分がどうしてヒットを打てるかを説明できるからです。」

 

マーリンズイチローが7日(日本時間2016年8月8日)に行われたロッキーズ戦の7回に三塁打を放ち、メジャー通算3000本安打を達成した。

メジャー史上では30人目の3000本安打達成。アジア人では初の達成。

 

冒頭の括弧書きはそのイチロー選手の言葉だそうである。

ぼくもそうありたいと思う。

何につけてもずっとそう思っている。

 

例えばもう一度味わいたいくらい楽しい事があったら、その「もう一度味わいたいくらい楽しい事」の成立要件がいったい何だったのかを考えて理解して知りたいと思うし、それを知ることによって出来事の内容は別の事でも楽しさの種類としては同じ事を味わう事が出来る可能性を上げる事が出来ると、少なくとも理屈はそう言うことだと思うからだ。

 

イチロー選手の言葉にも出てくる「天才」と言う単語があるが、彼の言葉の中でもそうだし、おそらく世間が彼に対して使った意味でもそうだし、一般的に言ってつまりそう言うことだと言うことになるのだと思うが、先のたとえ話で言えば

「天才」=「何も考えないで何も知らないで何度でもいつでも何らかの楽しさを味わい続けている人」

「天才」=「何も考えないで何も知らないで何度でもいつでもヒットを打つことが出来る人」

と言うことなのだろう。

 

自分がどうしてヒットを打てるかを説明出来ないけど、ヒット打てちゃうんだよね。

少なくともこれが就活の面接での言葉だったりしたならば、もしぼくが面接官なら落とします。

性格悪いとか言われそうだけど、常に客観的なスタンスでもきちんと言語的に成立しうるエビデンス(根拠)を用意しろ。そう思う訳です。

 

さて。

いつでも何にでも「エビデンス(根拠)」を用意しろと考えていくと、いつしか人は何ものでもなくなります。

もしそれを究極まで推し進めるのならば、その存在はつまり単なる客観的要素そのものとなるでしょう。

自我・アイデンティティ(主体性。自己同一性。)などと言ったものは解体され、自らは自らと言う言葉のくくりから解き放たれ、客観的要素そのもの宇宙と一体化しその存在は具象から抽象へ、魔法少女まどか☆マギカのラストシーン同様にその存在は概念へとシフトし、手塚治虫先生風に言えばコスモゾーンの一部として溶けていくことでしょう。

もしかするとその極まりし地点を観念として認識すること、それを仏陀が「悟り」と表現したのかもしれません。

もし仮にアナタがそれを達成するならばアナタは一対一対応する何かとして存在することはなくなり、アナタと言う存在は消滅したと他者から認識される事となるでしょう。

 

なぜそうなの?どうして?

考えれば考えるほど、そしてそう考えるのをやめないのならば人はきっと何ものにもなる事はないのだと言うことなのです。

 

再びのさて。

誰かが誰かを認識するとき、その誰かは誰なのか?とその様に認識するわけです。

「なぜそうなの?どうして?」と考え続け、「これはこういう事です。」「かくあるのです。」と言い切り形で発言することを自らの人生から排除し、「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続ける人物※仮にAさんとしましょうか。がいたとするならば、そのあまりにも客観性の高い存在であるAさんは周囲からAさんと言うフレーム(Aさんとは○○と言う範囲の内側にある存在。)をとても認識されがたい事でしょう。

 

フランス出身の哲学者、ルネ・デカルト(1596年~1650年)は「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったそうですが、Aさんとて主体的な存在としてのAさんが「なぜそうなの?どうして?」と考え続けていることは重々承知なわけですし、Aさんが自身の選択として「これはこういう事です。」「かくあるのです。」と言い切り形で発言することを自らの人生から排除すると言う選択肢を取っていて、Aさんが「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続けている事はもちろん言葉通りそのまんまだとわかっていることも言うまでもないならば、やはりこのデカルトが言う「われ思う、ゆえにわれあり」のフレームから解き放たれることはありえない訳です。

 

すなわち、仮にと設定してみた架空のAさんでさえ、そのAさんがAさん自身によってAさんであることから逃れる事は不可能なのですから、Aさんは幾らどんな手を尽くそうと、AさんがAさんによって手塚治虫先生言うところのコスモゾーンと一体になるだの、AさんがAさんによって魔法少女まどか☆マギカのラストシーン同様にその存在が概念へとシフトしたりする事を達成することは叶いません。

 

すなわち、AさんはAさん的ライフハック術、AさんがAさんらしく生きる事、Aさんが自らの命の使い方として選択するその在り方、それらをどんなに推し進めてもAさんはAさんとして「かくある」のだと言うことです。

AさんはAさんとして「かくある」。

 

しかしそれでも、Aさんは「かくある」ことすなわち何かと何かが一対一対応して存在することに懐疑的であり続けます。

地動説は間違っている!(あるいは少なくとも間違っているかもしれない!)などのような立場を取り続ければいつかはそれが覆され、「あ、すんません。地動説は間違ってましたww これからは天動説で行きましょう。」みたいなことになるかもしれない、すくなくともその可能性はいつだって否定できない。

Aさんは可能性、より良くより良くなる可能性、その積み上げの先にあるかもしれない信じられないくらい素晴らしい未来を願っています。

だからこそAさんは「かくある」ことをかたくなに拒みます。。。

 

するとどうなるか。

周囲の人々はAさんの事をこう捉えることでしょう。

「自分の意見を持たない人。」

「何を目的として生きているのか良くわからない。その割に理屈をこねくり回し続ける気持ち悪い人。」

例えばそんなふうに・・・。

 

意見と言うのは「私はXはYであると思う。」のように何かを言い切る事の様な気がします。

しかし、Aさんはそれをかたくなに拒んで生きているわけですから、Aさんは意見を持たない人と言うように周囲はそう捉える事でしょう。

 

Aさんとて「私はXはYであると思う。」と言う瞬間は当然ある訳です。

しかし、良く考えてみると「XはYであると同時にZとも言える。」とか「XはYであるかのように思えたが、Yと言うのはその上位の構造であるZの一部に過ぎなかった。」などと言ったように「X=Y」が覆されることがあまりにも多すぎたり、それゆえにもし仮に「X=Y」を覆すことが現時点で叶わなくても「X=Y」はきっと覆しうる物事だとAさんは分類することでしょう。

 

だから、Aさんは「私はXはYであると思う。」と言う発言をしません。

そう言ったあり方をする「意見」と言うものを述べる事をしません。

だからと言って、ひよっているわけではありません。

むしろもの凄く攻めた姿勢で生きています。

 

もちろんAさんとて、その場にとって意見としての意見が必要な時は「アイディア」と言う形で何らかの発言をする事はあるでしょうが、やはりその場と言うものが他者によって規定されない余暇の時間などには「私はXはYであると思う。」のようなことは口にしません。

例えば「(私は)君の事が(特別・格別に)好き(な存在)だ。」なんて容易に覆しうるようなことはもちろん言いません。

オラオラ系の真逆的存在。

しかし、脳内ではものすごーくオラオラしています。

目の前の物事をいち早く破壊し解体して、辞書に載せられるような客観的な言葉に組み替える。

そう再生成。

 

もちろん単語の組み合わせではなく「キミノコトガスキダ。」と言う区切れなくひとつながりの記号としての音声ならば必要に応じて言うのかもしれません。

Aさんにとって何か意見のようなことを言うためにはその様なややこしいプロセスが必要です。

 

こんなAさんはやっぱり周囲から「Aさんってこういう人だよね。」と認識されづらいです。

主だった周囲からは「何が言いたいのかわからない人。」に過ぎません。

だって、言いたいことが生まれるやいなや、それを解体して客観的な物事に組み替えてしまいたい人なのですから「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておけないような人、「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておきたくない人なのですから、そりゃあ周囲からしたら「何が言いたいのかわからない人。」としかとらえようがない事でしょう。

 

「かくある」ことを拒むと意見はなくなる。

あるいはそう言う方向に進むことになります。

 

・・・と言うAさんは筆者であるわたしの事だったりします。

 

発言に責任を持ちましょう。

例えばその観点からだって、「かくある」は常に覆しうるならばその「かくある」は拒まねばならないとも言えますし、とにかく自分は「言いたいこと」「意見」のようなものを自分の中に取っておきたくない人で、その部分だけで言えばイチロー選手とおんなじだったりするのかもしれませんが、イチロー鈴木一朗さんの野球選手としての一側面に過ぎず、野球を離れた、野球を切り離した個人としての鈴木一朗についてであるならば、やっぱり「何が言いたいのかわからない人。」と言うことになるのでしょう。

野球とセットで鈴木一朗さんの野球選手としての一側面であるイチローについては理解できるけれど、野球がなければやはりAさん同様に彼のことを周囲が上手く理解することは難しいのでしょう。

 

前回投稿したようにわたしの人生の目標は「生きているだけで生きていける」ことなのですが、その実現のためには他者から「かくあるAさんとしてのわたし」と言う認識を得る事がおそらく必要で、もしこれをイチローなら野球、筆者なら音楽と言うものを抜きにして(でないと、「生きているだけで」「生きていける」が何だか達成されないような気がする)得る事について考えてみるとやはりこれはもの凄く難しい事の様に思えます。

 

難しいと言うか、これはほとんど他者のリテラシー(読解記述力)、つまり他者が「わたし」のことを読解すると同時に「わたし」とはこういう存在であると記述し認識することに依存していることなので、そもそもわたしにはこの問題について関わりにくい、あるいは関わることが不可能な部分すらあるとしたら、つまりほぼ、または絶望的に不可能だと言わざるを得ないのかもしれません。。。

 

ならば、やはりどこかで思考ストップする。

思考ストップさせる地点、つまり立場を明確にすることが必要で、それは鈴木一朗さんにとっては野球選手としてのイチローであったり、あるいは音楽家としてのわたしだったり、「ある立場上のわたし」と言うものを設定する必要があるのかも。

 

それはいったい何なのでしょうねえ。

ひとくちに野球選手と言ったっていろんなタイプの選手がいるでしょうし、音楽家もまたしかりです。

ならば結局、立場のはっきりした野球選手と言うのも、立場のはっきりした音楽家と言うのもそれぞれに膨大なバリエーションが存在することになりますし、そして事実これらは存在しているわけです。

 

立場のはっきりした○○と言う膨大なバリエーションの中からたったひとつの「かくある」を選択し設定すること。

「かくある」ことは「X=Y」だと言い切ること。

 

だとするならばやはりわたしは「かくある」ことを拒みたくなってしまうのです。。。

※以下無限ループ。