万作の日記

人生の目標は「生きているだけで生きていける」こと。

『万作』③喫茶メルヘン

『万作』
■ 第三章 喫茶メルヘン


◆ 昼間の憂鬱が持つ輪郭をどうにかしてぼやかす事。

「喫茶メルヘン」は、そのネーミングセンス同様に、少々パッとしない町の喫茶店だ。
ベタベタしてあまり美味しくないエビピラフか、ケチャップの味そのものの工夫の無いナポリタンが名物である。

薄暗い店内にはカウンター席が5つと、4人がけのテーブル席が2つ、2人がけのテーブル席が2つ。
ヒヤシンスの水鉢が3つと、雑誌が並べてある棚が1つ、壁には薄暗い絵が飾ってある。
音の鳴らない、あるいは音を消しているテレビが、ランチタイムのテレビ番組のエンディング部分を流していた。

それ以外には、3人がけの円形のテーブル席が1つあるのだが、3人がけとは言え、詰めれば4人や5人は座れなくも無い。

こじんまりとした店だ。


現在、午後12時55分。
万作は喫茶メルヘンに到着し、店の一番奥にある4人がけのテーブル席に着き、数あるメニューの中からエビピラフやナポリタンは選ばずに、ソーダ水を注文した。
なぜなら、喫茶メルヘンのエビピラフやナポリタンを彼はあまり美味しいと思っていなかったし、さっき、空腹は満たして来た。
それに、目が覚めてすぐコーヒーを飲んでいたから、コーヒーを選択肢から外したからだ。

それ以外であれば何でも良かった。
目に付いたのがソーダ水だっただけである。

だから、この場合のソーダ水は万作の性質を語る上で何の情報にもならない。


そして。
傍らに置いてあった適当な雑誌を眺めては、昼間の憂鬱が持つ輪郭をどうにかしてぼやかす事に集中する。


昼間の憂鬱とは厄介なもので、昼間が終わるまで、彼に付きまとうのだ。
だから、早く昼間が終わって欲しいと、万作は心から思っていた。


雑誌に飽きると、店内を見渡しては、テレビを眺めるでもなく眺めたり、ソーダ水を飲むでもなく口をつけたりしてみる。
タバコを箱から取り出してみては、ライターに火を灯し、タバコへは火を点けずライターの火を消す。

それが、万作の昼間の終わらせ方だった。


店内にはソーダ水を万作のテーブルへ運ぶとカウンターの中へと戻り、それからぼんやりとテレビ画面を眺め続けている50代半ば程の店主と、万作一人であった。


万作はとにかくうんざりした気分から開放されたかったのだが、「ひっそりと世界の何処かに佇む、誰からも忘れ去られた古代遺跡に這うツタを揺らす風」はいったい何処から来るのだろうかとふと考え出してしまうと、彼をうんざりさせている原因の一つである世界はいつしか万作を虜にしていた。

「風」とは「思念」なのだろうか。

そうやって「喫茶メルヘン」の片隅で虜となっている万作が、ライターの火を使って、先ほど箱から取り出したタバコに今度こそ火を点けようとしたちょうどその時。


喫茶メルヘンの出入り口のドアが開いた事を示す、チリンチリンと言う鈴の音が聞こえた。


◆ 「空が酷く晴れた日」と言う名の今日。

現在、午後13時22分。
ジョン吉は、彼にとっての「とある喫茶店」である所の、「喫茶メルヘン」の入り口のドアに付いている鈴を鳴らした。


本来であれば、十分程で到着する予定であったが、何故だか到着には小一時間が掛かった。
スクランブル交差点や、昼間の街灯、手のやり場や、ポケットの事は、きっと時間を消滅させる効果があったのだと、ジョン吉は思った。

思ったというより、どうでも良かった。
なぜなら、ジョン吉は今日と言う日が嫌いだったし、時間が消滅する事もありえない。
どうでも良かったので、そう思った。

あるいは、今日は何だか気持ちが晴れやかでは無いので、「今日」が嫌いになった。
時間も何処かへ消滅してしまったし。
と、言い換えても差支えが無いとジョン吉は思った。


そもそも、自分の気持ちが晴れやかで無いのは、空が酷く晴れているからであろうか。
そんな気もした。

そう考えると、喫茶メルヘンの薄暗い店内は、もしかしたら今日の自分にとって最適な場所だと言えるかも知れない訳だ。


店内にはテレビ画面をぼんやりと眺めている店主と、一人の男が居た。

その一人の男は店の一番奥にある4人がけのテーブル席に座っていたのだが、その席はジョン吉がいつも座る席だった為、少し戸惑った。
しかし、気を取り直してその隣にある同じ色形をした4人がけのテーブルへ腰掛ける事にした。

テーブルだけを眺めている分には、いつもと同じ光景を得られるからだ。


ジョン吉は、彼にとっての「とある喫茶店」でいつも注文するナポリタンを注文し、店主の運んできた水の入ったグラスを手にした。
水の入ったグラスを手に取る事は、手のやり場に対する考察の一時的な結論である。

そして、その後はテーブルを眺めていた。
やはり良く見ると、いつもと違うテーブルなのだが、その事に何だか新鮮な気分を感じた。

味気無いナポリタンが待ち遠しかった。


◆ メルヘンナポリタン。

壁に掛けられた時計の針が午後13時46分を指そうとした時、喫茶メルヘンの店主は「メルヘンナポリタンおまたせ。」と言い、ジョン吉のテーブルに皿を置いた。

いつも思うのだが、ナポリタンの名称は、どんなナポリタンだって「ナポリタン」で十分だ。
「メルヘン」は不要では無いか、とジョン吉はいつも思う。

また、ナポリタンと言う言葉は、何度も反芻する内に、ゲシュタルト崩壊を起こしやすい言葉だとも思う。

それにこの場合「メルヘンな、ポリタン」と区切る位置を変えると、「ポリタン」って一体何の事だろうか。
と、新たな疑問がわいて来たりする。


「いつも思うのですが、ナポリタンの名称は、どんなナポリタンだって「ナポリタン」で十分だと思いませんか。」
隣のテーブル席に座っていた男がジョン吉に声を掛けて来た。

そのテーブル席はジョン吉が座ろうと思っていたテーブル席だったが、今は隣のテーブル席に座っている男の座るテーブル席である。
その男はソーダ水を飲んでいた。


そして、ジョン吉は思った。
ナポリタンって一体何の事なんだろうか。

しかし何の事は無かった、目の前のケチャップで味付けされたスパゲッティの事で、それは現在、湯気を立てていた。


ジョン吉は言った。

「そうかもしれませんね。」